sena0021’s blog

sena0021’s blog

色んな記事を書いていこうと思います。最近はドラマのレビューを書いていますが、それ以外にも遊戯王などの記事を掲載していますよ!コメント・はてブもしてくれると嬉しいです。よろしくお願いします

このエントリーをはてなブックマークに追加

3月3日の今日は・・・

ひな祭りですね!

f:id:sena0021:20170303230329p:plain

ひな人形を出す人出さない人様々だと思いますが、女性は楽しみで嬉しい日だと思います!

 

そんな3月3日・ひな祭りですが、今回も少し調べてみました!

 

ひな祭りの起源・歴史

ひな祭りはいつごろから始まったのかは歴史的には分かってないそうで、起源説は複数あるそうです。ですが、平安時代の京都で既に平安貴族の女の子の雅な”遊び事”として行われていたとする記録があるようです。その当時でも、やはり小さな御所風の御殿”屋形”をしつらえ飾ったものと考えられているそうです。

初めは儀式ではなく遊びであり、ひな祭りが”ひなあそび”とも呼ばれるのはそのためである。一方、平安時代には紙で作った人形を川へ流す”流し雛”がありますが、”上巳の節句(穢れ払い)”としてひな人形は”災厄よけ”の”守り雛”として祀られるようにようになったそうです。

その後江戸時代になり女子の”人形遊び”と節物の”節句の儀式”と結びつき、全国に広まって使われるようになったそうです。3月の節句の祓にひな祭りを行うようになったのは、大正年間以降のことだと推測されているそうです。

江戸時代初期には形代の名残を残す立った形の”立雛”や、座った形の”坐り雛(寛永雛)”が作られていましたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物だったそうです。しかし、飾り物としての古の形式と、一生の災厄をひな人形に身代わりさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女などの身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられていったそうです。

そのため、自然と華美で贅沢なものにそのため、自然と華美で贅沢なものになっていった。時代が進むと人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた”元禄雛”、大型の”享保雛”などが作られたが、これらは金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものでした。

享保年間からは、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型のひな人形が禁止されました。「御触書宝暦集成」十五では、「雛は八寸以下、雛諸道具は蒔絵は不可」という制限が見られる。しかし、この規制を逆手に取り”芥子雛”と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行したそうです。

江戸時代後期には”有職雛”とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらには今日の雛人形につながる”古今雛”が現れた。また、18世紀の終わり頃から囃子(そうし)人形が現れ、幕末までには官女・随身・仕丁などの添え人形が考案されたそうです。

雛飾りは嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や壇飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていったそうです。

ただ飾って楽しむだけでなく、儀式的な意味合いもあったんですね~!

それに嫁入りとしての道具的要素もあったんですね!

雛人形の意味を知ると認識が変わりましたね!

 

皆さんはいかがでしたでしょうか?
 

雛人形を見つつこの記事を思い出して頂けると幸いです!

最後まで読んでいただきありがとうございました!

このエントリーをはてなブックマークに追加